芸者/赤坂育子の経歴/プロフ画像あり!有名人のお客たちってだれ【プロフェッショナル】?5月21日

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2019年5月21日(火)NHK放送【プロフェッショナル仕事の流儀】に、花柳界の生ける伝説と言われている赤坂芸者の『赤坂育子』さんが出演されました。

赤坂育子さんは、79歳にして現在も現役の芸者です。

 

ここでは赤坂育子さんが芸者になった理由や経歴、そして「赤坂をどり」が長年・・・今でも続くわけを調べてみました。

 

 

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芸者とは?

 

芸者とは、舞や唄、三味線などの歌舞音楽の芸でお客さんを楽しませ、宴席を盛り上げるおもてなしのプロですよね。

 

料亭での宴席は様々です。

仕事の接待や、祝い事などその目的ごとに花を添えるのが芸者さんの仕事です。

 

赤坂育子さんはお座敷に入った瞬間から状況を把握し、自分がどう振る舞っていくのかを判断します。

 

かつては日本全国に多くの花街(花柳界)があり、芸妓たちも大勢いました。

東京を代表する花柳界といえば、東京六花街の『赤坂・新橋・浅草・芳町・向島』が有名です。

 

芸妓は多くの場合一人前の芸妓さんと見習いに区別され、それぞれの呼び名が地域によって異なりますが、東京を中心とする関東地方では芸妓さんを「芸者」、見習いを「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」などと呼ぶそうですよ。

 

 

 

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芸者・赤坂育子さんの経歴wikiプロフィール

 

 

 

芸者・赤坂育子さんのwiki風プロフィール

 

名前 : 赤坂 育子(あかさか いくこ)

生年月日 : 昭和15年(1940年)

年齢 : 79歳(2019年5月現在)

出身地: 熊本県熊本市

職業 : 赤坂芸者

 

 

芸者・赤坂育子さんの経歴

 

赤坂育子さんは、昭和15年(1940年)9人兄弟の末っ子として熊本市で生まれました。

地元で長唄の師匠に弟子入りをし、芸者の見習いの「半玉(はんぎょく)」となった後、昭和39年(1964年)に東京に出てきました。

 

上京するにあたっては、お父さんに「半玉になりたい(芸者になりたい)」と言うものの「学校に行ったばかりなのに、そんなのは許さん!」と言われてしまい、翌朝風呂敷一つで家を飛び出したそうですよ。

 

その当時はまだ高校生だったということですが、赤坂育子さんの行動力はすごいものがありますよね。そんな芯の通った育子さんだからこそ誰もが認める一流の芸者さんになることができたんでしょうね。

育子さんに転機が訪れたのは昭和39年24歳の時でした。

雑誌で東京赤坂に日本有数の花柳界があることを知りました。

そして自分の力をどうしても試したかった育子さんは、先輩芸妓さんのつてで赤坂で働くことになりました。

しかしまもなくして育子さんの耳にはご自分のよくない噂が入ってきました。

「熊本で悪いことをして出てきた・・・」

「色恋で出てきた・・・」

などの噂が。。。とても悔しかった育子さんは、必ず結果を出して見返してやる!そう心に決め人一倍踊りの稽古に励みました。

そしれさらに力を入れたのが、お客さんを楽しませるたもの話術でした。

赤坂育子さんはお座敷で会話上手になるために、1年から2年かけて赤坂のオカマバーに通い続け、会話術を学んだそうですよ。 

また、お客さんとの共通の話題を保つためにゴルフや競馬・・・あらゆることを学びました。

 

昭和40年(1965年)の半ば・・・30歳を前に、育子さんには多くのご贔屓(ひいき)がつくようになりました。

ときには正解のトップ・・・ときには国民的スター・・・いつしか育子さんは赤坂で最も人気のある芸者の一人となりました。

 

 

 

 

しかし、昭和50年35歳の時、ご贔屓(ひいき)の社長の宴席に呼ばれた時でした。。。。

社長が連れてきた女性客にゴルフ話で盛り上げました。しかし、帰りがけに社長が先輩芸者に「育子だけはもう呼ぶな・・・」と言い残して帰りました。

育子さんはとてもショックで、先輩芸者に尋ねたところ、その原因はゴルフの会話でした。。。

「芸者のくせにゴルフの話を偉そうにしてしつれいだ・・・」と言われたのでした。

育子さんは失礼なこと話したつもりはなかった。。。しかしそれは自分のはいた言葉に気遣いが足りなかったのだと、育子さんはもう一度お座敷での態度には最大の注意を払うようになりました。

 

その努力もあり、今現在79歳になっても赤坂芸者として第一線で活躍されています。

 

育子さんは『赤坂一の美人』と評判を呼び、週刊誌の表紙も飾りました。

また、赤坂育子さんは多くの著名人との交流もあり、踊りの名手として誰もがその踊りにうっとりしてしまうほどで、歌舞伎座や国立劇場のほかテレビ出演も多数されています。

 

赤坂育子さんの芸事の追求と花柳界への貢献が認められ、芸者として初めて「朝日双光章」が授与されました。

朝日双光章」とは国や公共に対し功労のあるものに授与される賞です

 

ちなみに赤坂育子さん、現在も週3日以上お座敷に出ていらっしゃるそうですよ!

 

赤坂育子さんは『赤坂をどり』の発起人の一人と言われ、今では演目決めの段階から中心的に関わっていらっしゃいます。

現在は置屋の主として、若手芸者の育成にも力を注いでいらっしゃいます。

 

 

育子さんの自宅は置屋と呼ばれる芸者衆の事務所になっています。

現在は7人の赤坂で花の知れた芸者が在籍しています。

昭和の初めは東京に1万人の芸者がいたという花柳界ですが、時代と共に下火となり置屋の数も減ってしまいました。

 

人があるから自分がある」これが育子さんの生きる道です。

大切なのは生きる姿勢。日々をどう積み重ねるか・・・そう育子さんは言います。

 

育子さんは、少しでも花柳界を盛り上げたいという思い出、地方からの依頼にも積極的に出向いて生きます。

 

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赤坂育子さんが芸者になった理由は?

 

赤坂育子さんは可愛いものが大好きで、将来の夢は花屋さんになることだったそうですが・・・・

赤坂育子さんは、熊本で芸者見習いの「半玉(はんぎょく)」になりました。きっかけは高校にないって1ヶ月もしないうちに、デパートで可愛い着物を着た舞妓さんのような2人組の芸妓さんを見かけたのがきっかけだそうですよ。

その2人に「あなたたち何してるの?」と聞くと、着物を着てお稽古事をさせてもらえ、お金ももらえるという話を聞いて、育子さんはそのときの半玉さんたちのことを「いいな」と思ったそうです。

赤坂育子さんのお母さんは既に亡くなっていたので、お父さんに「半玉」さんになりたと言ったところ「そんなのは許さん」と言われたそうですが、赤坂育子さんはお師匠さんの連絡先だけ残して風呂敷一つで家を出てしまったそうです。

その後お父さんから連絡が来て「どうしてもやりたいのなら、はんこ押すから(身元引受け書類)一流になれよ」と言われたそうですよ。

 

 

 

 

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芸者・赤坂育子さんをお座敷に呼んだ著名人って?

 

赤坂育子さんのお客様は、総理大臣をはじめとした政治家や、有名スポーツ選手や芸能人など数々の著名人のかたがたくさんいらっしゃいます。

 

金田正一さん / 王貞治さん / 長嶋茂雄さん / 川上哲治監督 / 佐藤栄作さん / 田中角栄さん / 岸信介さん / 美空ひばりさん / 勝新太郎さん / 石原裕次郎さん / 力道山さん・・・・・

・・・・などなどの著名人のお座敷に呼ばれることもたくさんあったそうです。

 

美空ひばりさんは、赤坂育子さんが熊本出身だとわかると「五木の子守唄を歌うから踊らない?」と言ってくださったそうです。

 

石原裕次郎さんには、波止場での撮影の時に「船に乗りなよ」と言われ、乗り込んだ船で撮影を見学したこともあるそうですよ。

 

力道山さんには、巡業先の福岡や鹿児島に呼ばれて彼女のふりをしたこともあるそうです!

 

田中角栄さんのお座敷は大広間に70〜80人の芸者さんたちでお客様が見えないくらいの数の芸者さんが呼ばれていたそうですよ。

 

プロ野球巨人の川上哲治監督は熊本時代から優勝するたびにお座敷に呼んでくれるなどして、赤坂育子さんのことをひいきにしてくれたそうですよ。

 

 

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「赤坂をどり」とは?

 

 

 

『赤坂をどり』は集大成に向けて1年の稽古の後、花柳界の関係者や旦那衆(お座敷のお客様)やその家族などに感謝の気持ちを示す場で、赤坂に勢いがあった時代には歌舞伎座で公園したこともありました。

 

 

 

 

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芸者・赤坂育子さん流「恋愛成就」の精神とは?

 

芸子・赤坂育子さんの言う恋愛成就の秘訣は「大和なでしこ精神」だそうですよ!

「大和なでしこ精神」で一歩下がって物事を考えると、恋愛も仕事も、あらゆる人間関係のこともよく見えてくる」・・・と赤坂育子さんは言っています。

 

赤坂育子さんが言うには、「一歩下がってみるということは、一歩下がって物事を考えることにつながる。つまり自分自身も他の人も客観視することが大切だ」と言うことだそうです。

 

「相手に求めてばかりの要求やさんは男心をつかむことができない。。。一歩下がってものを考えていくと、要求だけでつなぎとめられないこともわかる。だから一歩下がってものを考える『やまとなでしこ精神』はしあわせを引き寄せること」・・・なんだそうですよ。

 

大切なことは、自分の要求を押し付けずに相手に「お願いする」と言うスタンスでいることです。「お願い」は謙虚な気持ちの表れです。

 

 

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赤坂育子さんの日課

 

育子さんは自宅のベランダで植物を育てていますが、毎朝必ず花を愛で四季の移ろいを肌で感じるように努めています。

毎日新聞やテレビのチェックは欠かさず、どんな話題も取りこぼししません

今でもテレビから1日3つは話題を見つけるようにしているそうです。

 

日々の一分一秒をどう積み重ねていくか。。。それが本物の芸者をつくりあげていくと育子さんは信じているそうです。

 

1日の最後は必ずルームランナーで20分間足腰の筋力維持に努めていらっしゃいます!

 

 

これが芸者育子さんの日常です。

 

育子さんは、お酒は人を変えるので、嫌いではないけれど自分から進んでは飲まないそうです。

 

育子さんの趣味は?・・・パチンコに生きたいそうですよ(^_^;)

好きな男性のタイプは・・・言葉の歯切れがスパーッとしている人!

苦手な男性のタイプは・・・お酒を飲んでしつこい人!同じことを何どもいう人!

お客さんに恋をしたことは?・・・あります♡でも思う人と添うことはなかなかできない。。。

 

 

実は育子さんは8年前から肺気腫を患っていますが、お座敷に呼ばれたら決して弱音は吐かないと決めています!

 

 

育子さんは言います。。。

芸者はお座敷に呼ばれてなんぼ!・・・時代にそっぽを向かれたらそれでおしまい・・・と。

だからこそ常に全身全霊で生きています。

疲れた先にこそ楽しさがある・・・と言います。

 

赤坂育子さんの思い出の味

 

誰にでも忘れられない思い出の味というものがありますよね。

育子さんの思い出の味は「お好み焼き」だそうです。

育子さんが上京してきたときに嫌なことがあると毎日泣きながら食べていたのがお好み焼きだったそうですよ。

一口ずつ噛み締めながら・・・・

お好み焼きを食べるのは、番組放送の時が50年ぶりだったそうです!

辛い思い出を思い出し、涙していました。。。。

 

 

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まとめ

 

赤坂育子さんは昭和15年(1940年)に熊本市に生まれ、地元で長唄の師匠に弟子入りしました。 

芸者見習いの「半玉(はんぎょく)」となった後、昭和39年(1964年)に上京しました。

 

それから現在まで赤坂芸者として第一線で活躍しています。

 

「赤坂一の美人」と評判を呼び、週刊誌の表紙も飾るほどでした。

有名な「赤坂をどり」では演目決めの段階から中心的に関わっています。   

現在は置屋の主として若手芸者の育成にも力を注いでいます。

 

赤坂育子さん、芸者として赤坂に育ててもらった・・・という気持ちから、赤坂に骨を埋める・・・と、納骨堂も購入済みだそうですよ。

 

それにしても赤坂育子さんの、「ご挨拶・素直な心・奉仕の心・謙虚な心・感謝の気持ちを持てば、きっとしあわせがくるんじゃないかな。」と言う言葉は本当にいい言葉ですね。

 

しかし、育子さんが昭和39年に上京して来た時には400人以上いた赤坂芸者さんたちも今では22人まで減ったそうです。

 

ここまで呼んでいただき、ありがとうございました(*´◒`*)

 

 

 

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