【情熱大陸】田名網敬一のプロフィール!作品の色彩感覚はどうやって培った?4月28日

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2019年4月28日(日)TBS系列【情熱大陸】の放送は、

アーティスト・グラフィックデザイナー・イラストレーター・

・・・などの田名網敬一さんが取り上げられます。

 

ここでは、田名網敬一さんのプロフィールと

大学教授としての田名網敬一さんの教えや、

田名網敬一さんの作品がどうやって作られるのか・・・

などについて紹介します。

 

A Piece of Truth 田名網敬一 記憶の集積から生まれる異界

 

 

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田名網敬一プロフィール

 

 

 

 

田名網敬一さんについて

 

田名網敬一(たなあみ けいいち)さんは、

1936年東京の福地問屋の長男として生まれました。

 

田名網敬一さんは、9歳の時に東京大空襲を経験されています。

 

この時に脳裏に焼き付いた数々の光景・・・・

 

轟音を響かせるアメリカの爆撃機、

それを探すサーチライト、爆撃機が投下する焼夷弾、

火の海となった街、逃げ惑う人々、そして、田名網敬一さんの

祖父が飼っていた金魚が爆撃の光に反射した水槽を泳ぐ姿・・・

そんな光景の記憶のすべてが・・・

 

現在までに書き出してきた作品の主なモチーフを占める

元になっているそうです。

 

 

幼少期より絵を描くことが好きだった田名網敬一さんは、

中学生の頃に当時の代表的な漫画家、原一司さんのアトリエに

出入りし、漫画家を目指すようになります。

 

しかし、原さんの突然の死によって今度は絵物語作家の道を

目指すようになります。

 

その後はプロのアーティストになるべく、武蔵野美術大学へ

進学します。

田名網敬一さんの才能は学生時代から広く知られ、

1958年在学、2年生の時にイラストレーション、デザインの

権威団体の主催する展覧会で「特選」を受賞しました。

 

大学卒業後は、広告代理店に就職しましたが、田名網敬一さん

個人への仕事の依頼が多すぎルコとで1年足らずで退社しました。

 

その後、イラストレーター、グラフィックデザイナーとして

忙しい毎日を過ごす傍、戦後日本を象徴する芸術運動の一つである

ネオダダイスムオーガニゼーションと行動を共にし、

1960年代半ば以降は、当時アートとしては最も新しいメディア

出会った映像作品の政策にも没頭しました。

 

現在はアーティストとして・・・

そして、大学教授としても活躍されています。

 

田名網敬一さんのお父さんやお母さんはどんな人?

 

田名網敬一さんのお母さんは、

田名網敬一さんが絵を描くことをずっと

嫌がっていたそうですよ。

 

田名網敬一さんが美大に行くのも大反対だったとか!?

 

田名網敬一さんのお家は代々商人の家だったそうで、

お父さんが道楽者で、お母さんはかなりの苦労をしたそうです。

 

そんなお母さんにとっては、「絵を描くことも道楽だ!」

・・・と田名網敬一さんが絵を描くことをとても

嫌悪していたんだそうです。

 

その当時、テレビに絵描きさんが出てくると

すぐにお母さんに呼ばれて、

「あんたもいずれこうなるんだよ」って言われていたそうで、

田名網敬一はそういうことを延々といわれつづけながらも

今のお仕事を選んだので、何か人前で堂々と描けない

自分がずっといたそうです。

 

今の歳になっても、どこか尾を引いているところが

あるんだそうですよ。。。

 

まぁ、その後はお母さんもいい加減諦めたそうですが

それでも絶対に田名網敬一さんの絵を褒めることが

なかったそうです。

 

お父さんがよほどの道楽者だったんですね。。。

 

 

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田名網敬一の作品の感覚はどこから?

 

田名網敬一さんの色彩感覚はどこから?

 

田名網敬一さんは、幼少期に日本橋高島屋の

裏に住んでいた・・・ということもあり、

田名網敬一さんの遊び場は高島屋だったそうです。

 

当時、日本橋高島屋での買い物は最高のステータス!

いろんな人種がひしめいている中で、田名網敬一さんは

エレベーターに乗ったりして遊んでいたそうですよ♬

 

その時に日本橋高島屋でみた着物の景色も、田名網敬一さんが

作り出す作品の極彩色のイメージになっているそうです。

 

田名網敬一さんは・・・

その頃の体験から作品の色彩感覚を培ったんだと話しています。

 

 

田名網敬一さんの創作動機は?

 

田名網敬一さんの作品に描かれるイメージは、

特に幼少期からが強いそうで、田名網敬一さんの

幼少期の経験が作品の創作動機になっているようです。

 

その記憶とは・・・

幼少期の食の記憶や戦争の記憶、遊びの記憶や

母親と暮らした記憶など、ありとあらゆる記憶が

存在するそうです。

 

それらすべての記憶がコラージュされて絵になっているんですね!

 

田名網敬一さんいわく・・・

100とか200くらいの要素で構成されているのは、

今までのあらゆる時代の記憶が凝縮されて

貼り合わされたもので、あれもやりたいこれもやりたい

という意欲で絵が出来上がるそうですよ。

 

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田名網敬一さん『アディダス』とのコラボ!

 

 

 

 

 

 

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一教師、田名網敬一さんとは?

 

田名網敬一さんの言う優秀な生徒とは?

 

アーティストとしての田名網敬一さんではなく、

一教師、田名網敬一教授としては・・・・

自分自身にとっての関心や興味のある課題しか

出さないそうですよ。

 

田名網敬一さんいわく、いろんな違うタイプの

先生がいるので学校全体としてバランスが取れていれば

いいそうです。

 

絵は・・・・

『教えてもらうことではなくて、

 自分で考えるもの』

田名網敬一さんはそう言っています。

 

生徒さんの中にも色々な生徒さんがいて、

順応性が高い生徒さん、反発する生徒さん、

でも、田名網敬一さんは・・・・

 

「優秀な生徒とは、

どっちかっていうと、順応するよりも

抵抗してくる。逆に言えば、それをきっかけに

ディスカッションできるから面白い。

言いなりの生徒は伸びない!」

 

・・・・だそうです・・・

 

 

想像力を教えることとは?

 

田名網敬一さんは、アートの教育現場について

 

「本来アートとは教えれるものではない。

あくまでも描く人の脳内で起こるもので、

”こうして、ああして” と教えられるようなものではない。

教授と学生と言っても、みんなそれぞれ違うから

僕の言っていることを受け取ってもらえるのかもわからない。

若い人も自分の感性で自由にものを作ることが

大事だと思う。」

 

・・・こう考えていらっしゃいます。

 

アートの世界での日本の子供の教育は、

想像力については教えていないんだそうです。

日本は、記憶を重視した教育が主流で、

記憶力の良い子供が成績が良くて、

逆に想像力が抜き出ている子供は成績が悪かったり

するようですね。

 

例えば、図工や美術の時間に

「りんごの絵を描きなさい」

と言うお題が出たとして、日本では前もって生徒に

見本となる静物画を見せたりします。

しかし、アメリカのアートの教育では、

想像力を鍛えるために生徒たちに参考作品を

見せてはいけない決まりがあるそうです!

 

その結果、30人のクラスでは30通りの絵が

生まれるそうですよ。

 

そして参考作品を見せられた日本の教育方針では、

みんなだいたい同じような絵になってしまそうです。

 

確かにそうですよね!?

私も記憶にあります! 

 

美術の授業では見せられたものが良いと思い、

自分の好きに描くのではなく、自然に

参考作品に近いものを書こうとしていました。

それってつまらないですね。。。

そのせいかどうかはわかりませんが、

絵を描くことが楽しかった記憶がないです(^_^;)

 

確かに・・・

田名網敬一さんの言うように、日本の教育には

イマジネーションが欠けているように思います。

それは、きっとアートだけに感したことではないですよね。

 

アートに関しては確かに、イマジネーションを

もっと取り込んでいけば芸術教育は活気付くでしょうね。

 

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田名網敬一さんの現在

 

田名網敬一さんは、

体力のある30代や40代の頃よりも

82歳になった現在の方が、

たくさん作品を作っているそうですよ。

 

毎日、寝る・お風呂に入る・食べる・お酒を飲む・・・

それ以外の時間は全て作品制作の時間だそうです。

 

朝はだいたい8時半に起きて、ご飯を食べて、

仕事をして、夜7時頃まで制作をして・・・

またご飯を食べて、オフとに入って・・・

それからまた夜の12時ごろまで作成する。

そんな毎日だそうです!

制作や仕事以外にはやりたいことはないそうです。

 

 

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まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

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